2015年6月6日土曜日

【大関ヶ原展・京都】大関ヶ原展~京都文化博物館に行ってきました

 昨日、京都文化博物館の「大関ヶ原展」に行ってきました。
 
 学芸員さんのギャラリートークも聞いてきましたので、その雰囲気の一端でも紹介できたらと思います。

京都文化博物館別館
2015年6月、管理人撮影


 まずは別館。こちらでは「大関ヶ原展」の展示は行っていませんが、この建物自体が重要文化財になっています。

 元は日銀の京都支店だった建物で、設計は近代建築の巨匠・辰野金吾(1854~1919)とその弟子の長野宇平次(1867~1937)によるものです。

 外壁の「辰野式」と呼ばれる赤レンガの壁面に花崗岩を装飾的に配するスタイルが目を引きます。


 「大関ヶ原展」が行われているのは別館の北隣にある本館。

 チケットを購入し、エレベーターで4階の特別展へ上がろうとすると、東西両軍の主だった武将の旗印が掲げられていました。
東軍の旗印(左から徳川・本多・黒田・細川)
2015年6月、管理人撮影

西軍の旗印(左から小早川・大谷・島津・石田)
2015年6月、管理人撮影


 展覧会場に入ると、ギャラリートークまでに展示をざっと見ておくことに。

 まずはいくつかの合戦図屏風があり、そこから時系列的に展示がはじまっていく構成。

 展示は秀吉の死を関ヶ原合戦の萌芽としてその辺りから展示を進めておりましたが、なぜか関ヶ原前に死去している酒井忠次(1527~96)の所用品がありました。嫡男の家次(1564~1618)の鎧も別の場所に展示されていたので、ネームバリューのある忠次も一緒に展示してしまえということだったんでしょうか(笑)





 そんなこんなで3階まで一通り見て、また4階に戻るとギャラリートークが始まるところでした。

 軽妙洒脱な語り口で色々な話が聞けましたが、いくつかまとめてみるとこんな感じでした。他にも色々と面白い話を聞けましたので、ご興味のある方は是非どうぞ(6/12、7/3・10の午後6時から)。

 ・関西でやる展示なので、緒戦の杭瀬川の戦い(西軍勝利)が登場する合戦図を用意した
 ・最近話題の「骨喰藤四郎」、展示で持ってみたらやはり重かったとのこと
 ・京都展なので鳥居元忠の伏見籠城戦や京極高次の大津籠城戦をギャラリートークの話題に
 ・豊国祭礼図屏風を引いて「関ヶ原で勝ったと言っても一気に豊臣の力が弱まったわけでわない」
 ・知恩院が改装中なので特別に徳川家康坐像が借りられた
 

 展覧会全体については、展示品もさることながら、関ヶ原の戦いという一日で決まったと思われがちな戦いが、開戦経緯や戦後処理持含めて時間的幅のある戦いだったということを視覚的に理解できるという意味でも有意義だったかなと。

 また展覧会の性質上、絵画史料や武将の所用品が中心で、見た覚えのある肖像画等の来歴がおさらいできて非常に有意義でした。あと、熊野の牛王宝印が実際に使われてる現場(宇喜多秀家の起請文だったはず)を見れたのはラッキーでした。

 ちなみに、当ブログで紹介した小早川秀秋の肖像画は後期展示となります。


関連記事

【大関ヶ原展・京都】あの小早川秀秋の肖像画、今年はもう見納め?
http://japan-historic-spots.blogspot.jp/2015/05/blog-post_24.html


 それでは、最後までご覧いただきありがとうございました。



大関ヶ原展・京都展のページ
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/tokugawa_ieyasu/


2015年5月30日土曜日

【歴史ニュース】借金のカタになった重要文化財~三十六歌仙図の断簡

 昨日、このようなニュースを目にしました。

 相続の重文、所在隠す?=博物館寄託、説明せず-破産会社元代表強制捜査・東京地検
 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201505/2015052900476&g=soc


 ニュースの概要は、破産手続きの際に、京都国立博物館に寄託していた重文二点ほかについて説明しなかったことが破産法違反に問われて強制捜査が入った、ということなのだそうです。

 それはそれとして、気になるのは借金のカタに売られてしまった重文について。今回は、先ほどのニュースで紹介された「紙本著色三十六歌仙切(是則)」と「紙本著色源宗于像」について書いてみます。


「紙本著色三十六歌仙切(是則)」と「紙本著色源宗于像」

この「紙本著色三十六歌仙切(是則)」と「紙本著色源宗于像」、作品としてはどちらもいわゆる「歌仙絵巻」と呼ばれるジャンルに属します。「歌仙絵巻」とはその名の通り、三十六歌仙を描いた絵巻物で、詞書の部分にはそれぞれの略歴や代表歌などが書かれています。

 今回の2つの作品は、それらの絵巻の断簡(一続きの作品を切り取ったもの)部分で、坂上是則(?~930)と源宗于(?~940)の断簡になります。2人とも百人一首に選ばれていることでも有名ですね(※1)。

 そして、「是則」は佐竹本、「宗于」の方は上畳本の三十六歌仙絵巻からの断簡。佐竹本とは久保田藩主・佐竹家に伝来していたものですが、上畳本とは歌仙がそれぞれ上畳(貴人用の畳)に坐していたことからのネーミングとのこと。佐竹本・上畳本ともに似絵の名手である藤原信実(1176?~1265?)の筆になると伝わっています。

 今回の2つの重要文化財は2月3日に破産管財人から文化庁に売却されたということで、個人が所有する文化財の保存の難しさというものが改めて浮き彫りになった形となりました。



佐竹本の三十六歌仙絵巻の数奇な運命

ところで、「紙本著色三十六歌仙切(是則)」が属する佐竹本の三十六歌仙絵巻については、大正のころまでは上下二巻の一続きの絵巻物として存在していました。

 しかし、大正期に佐竹家から古美術商を経て実業家の山本唯三郎(1873~1927)に絵巻は売却。その山本も大戦景気の反動による不況から手放さざるを得なくなります。しかし、不況の最中であり、絵巻物を1人で購入できるコレクターは見つかりませんでした。

 そこで、絵巻売却の話を持ちかけられた益田孝(鈍翁、1848~1938)が発案したのが、絵巻を裁断し、歌仙1人ずつの断簡にして各コレクターに売るということ。絵巻は三十六歌仙と冒頭図に分割され、大正8(1919)年12月20日に増田邸内の応挙館(東京国立博物館内に現存)でどの断簡を貰い受けるかという抽選会が行われました。

 この抽選会には、鈍翁をはじめ住友吉左衛門(十五代、1865~1926)や團琢磨(1858~1932)、野村徳七(二代、1878~1945)といった財界の著名人も参加し、新聞にも取り上げられるなどかなり大々的なものだったそうです。

 そして是則の断簡は鈍翁の弟である益田英作(紅艶、1865~1921)貰われていきました。今回の関係人物と益田家に関係ありませんので、やはり是則の断簡も紅艶死後に所有者を転々としたものなのでしょうか(※2)。

佐竹本三十六歌仙絵巻の切断を発案した益田孝(鈍翁)
国立国会図書館 近代日本人の肖像より転載




 ご覧いただきありがとうございました。


(※1)2人の歌は以下の通り。是則の歌は「六字決まり」としても有名ですね。
 是則 朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪
 宗于 山里は  冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
 
(※2)是則の断簡の所有者変遷は以下の通り
 益田英作(紅艶)→津村重舎(ツムラの創業者)→某→伊東富士丸家→文化庁



参考文献
官報 平成27年3月2日号
馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、(日本放送出版協会、1984)

2015年5月25日月曜日

【史跡】芸亭~日本で初めての公開図書館

 ようやく当ブログがタイトル通り史跡を紹介することになりました。


 栄えある(?)トップバッターは「芸亭」(本来は「芸」の草かんむりは「十」を二つ横に並べたもの)です。こう書いて「うんてい」と読みます。

 芸亭については、近鉄新大宮駅の北側、国道24号線の一条高校側に「芸亭伝承地」として碑と説明文が立っています。


タクシーの後部座席から撮った芸亭伝承地。一部しか写っていない。
(2010.5.4管理人撮影)

 この芸亭、日本最初の公開図書館として高校教科書に記述されるほどに有名で、石上宅嗣(729~81)が自宅を寺とした際に、その一画に造られたものと『続日本紀』に記述があります。


 石上宅嗣は奈良時代後半の混迷極まる政局を生き延び、ついには正三位大納言にまで登った政治家であり、また、淡海三船(722~85)と並んで「文人之首」とまで称されたほどの文化人でした。

 そんな宅嗣ですが、晩年に自宅を阿閦(あしゅく)寺という寺にした際、その一画に仏典以外の書物もを蔵した建物を建立、これを「芸亭」と名付け、一般人にも開放したとのこと。このことから、「芸亭」を日本最初の公開された図書館と呼称しているのです。

また、 『日本後紀』によると、賀陽豊年(751~815)が芸亭で学んだとして特記されています。 
  
近寄って撮った芸亭伝承地
(2010.5.4管理人撮影)


 そんな感じで日本文化史上に残る輝きを放った芸亭ですが、長岡・平安遷都や宅嗣死後の石上氏があまり振るわなかったこともあり、芸亭も衰退。

 遷都後の『続日本紀』の編纂時(延暦16、797年)にこそ「其院今見存焉」として存在していたことが記されているものの、それから30年ほどたった『綜芸種智院式并序』(天長5、829年)には「石納言之芸亭」について「人去跡穢」と記述。「人去って跡穢れる」ということですから、この頃には芸亭はなくなっていたと見るべきなのでしょう。

 とはいえ、先述の綜芸種智院も15年ほどしか持たなかったことを考えると、遷都などがあった割にはよく持ちこたえたというべきなのかもしれません。



 ところで、芸亭の場所について『続日本紀』は何も語ってはいませんが、林宗甫(生没年不詳)が天和元(1681)年に著した『和州旧跡幽考 巻四』に阿閦寺の説明として「法華寺の鳥居のたつみ、わづかにへだたりて田の中に松の一本ありし所ぞ阿閦寺の跡なり。」と『三語集』をひき、その上で「当代は鳥居もなく松も見えず。」と続きます。

 また、一条高校周辺地域の古字「堂ノ前」、「堂ノ後」からこの辺りに阿閦寺を想定する見解もあり、そういったところから、法華寺の巽(南東)方面である一条高校の近くにこの碑が建てられているものと考えられます。

 尤も、『和州旧跡幽考』の当該箇所の続きには光明皇后の千人風呂の話を紹介して、最後に垢を流した病人が阿閦如来の化身だったことから阿閦寺となったと結ばれています。『和州旧跡幽考』に錯誤があったということなのでしょう。


 ご覧いただきありがとうございました。

2015年5月24日日曜日

【大関ヶ原展・京都】あの小早川秀秋の肖像画、今年はもう見納め?

実質初めての記事が史跡探訪ではなく、看板倒れのそしりは免れませんが(笑)、ふと気付いたので備忘録程度に。


私は近畿の人間なので、戦国好きには話題であろう「大関ヶ原展」も京都会場(京都文化博物館)で見ようと考えている。

たまたまチラシが手近なところで入手できたので見ていると、「小早川秀秋の肖像画が展示される」という箇所に目が止まった(6/30~7/26のみの展示)。

肖像画自体はリンク先の通りで、おそらく皆さまが思い描いていた通りの肖像であろう。優柔不断そうな顔つきで、とても朝鮮出兵で武勇伝があった(史料的裏付けは微妙らしいが)人間のものとは思えない肖像画である。

肖像の上には高台寺の開山である弓箴善疆(生没年不詳)による慶長8(1603)年7月の賛があり、秀秋(1582~1602)死後すぐの作品ということもあってか、実は重文指定を受けているのである。


そんな肖像画の公開がどうした、と言われそうだが、実はこの肖像画、つい先日も同じ京都で公開されているのである。

その展覧会は「桃山時代の狩野派」、5月17日まで開催されていた京都国立博物館の特別展である(秀秋肖像は4/7~4/26の前期展示)。狩野派が描いたであろう肖像画の一つとして展示されていた。


そして、ここからが本題なのだが、この小早川秀秋画像は6月2日からの「大関ヶ原展」以降、しばらくは見れない可能性が高いのである。というのも、文化庁が出している通知(国宝・重要文化財の公開に関する取扱要項の制定について)において、重文作品は「原則として公開回数は年間二回以内」とされているからであり、この肖像画も対象になる。ということで、狩野派展と関ヶ原展で今年の分は見納めになりそうだからである。

もちろん、この秀秋画像が例外的な扱いを受けている可能性はないではないが、「大関ヶ原展」でも京都会場でしか公開されないあたり、その可能性は薄そうである。


京都国立博物館と京都文化博物館、自転車で15分もあれば行けそうな距離で公開の機会が消費されるのは、何とも惜しいことかもしれないが、私としては狩野派展の前期展示は見逃したのでラッキーかもしれない。

ともかく、秀秋好きの方はしばらく見納めとなる肖像画を見に、この展覧会を見に行かれてもいいのではないだろうか。

お読みいただき、ありがとうございました。



京都文化博物館 大関ヶ原展のページ
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/tokugawa_ieyasu/

2015年5月23日土曜日

ブログを始めました

 見ての通り、ブログを始めました。

 初めてのブログなので、よく分かっていないことも多々ありますが、よろしくお願いします。