栄えある(?)トップバッターは「芸亭」(本来は「芸」の草かんむりは「十」を二つ横に並べたもの)です。こう書いて「うんてい」と読みます。
芸亭については、近鉄新大宮駅の北側、国道24号線の一条高校側に「芸亭伝承地」として碑と説明文が立っています。
タクシーの後部座席から撮った芸亭伝承地。一部しか写っていない。
(2010.5.4管理人撮影)
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この芸亭、日本最初の公開図書館として高校教科書に記述されるほどに有名で、石上宅嗣(729~81)が自宅を寺とした際に、その一画に造られたものと『続日本紀』に記述があります。
石上宅嗣は奈良時代後半の混迷極まる政局を生き延び、ついには正三位大納言にまで登った政治家であり、また、淡海三船(722~85)と並んで「文人之首」とまで称されたほどの文化人でした。
そんな宅嗣ですが、晩年に自宅を阿閦(あしゅく)寺という寺にした際、その一画に仏典以外の書物もを蔵した建物を建立、これを「芸亭」と名付け、一般人にも開放したとのこと。このことから、「芸亭」を日本最初の公開された図書館と呼称しているのです。
また、 『日本後紀』によると、賀陽豊年(751~815)が芸亭で学んだとして特記されています。
近寄って撮った芸亭伝承地
(2010.5.4管理人撮影)
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そんな感じで日本文化史上に残る輝きを放った芸亭ですが、長岡・平安遷都や宅嗣死後の石上氏があまり振るわなかったこともあり、芸亭も衰退。
遷都後の『続日本紀』の編纂時(延暦16、797年)にこそ「其院今見存焉」として存在していたことが記されているものの、それから30年ほどたった『綜芸種智院式并序』(天長5、829年)には「石納言之芸亭」について「人去跡穢」と記述。「人去って跡穢れる」ということですから、この頃には芸亭はなくなっていたと見るべきなのでしょう。
とはいえ、先述の綜芸種智院も15年ほどしか持たなかったことを考えると、遷都などがあった割にはよく持ちこたえたというべきなのかもしれません。
ところで、芸亭の場所について『続日本紀』は何も語ってはいませんが、林宗甫(生没年不詳)が天和元(1681)年に著した『和州旧跡幽考 巻四』に阿閦寺の説明として「法華寺の鳥居のたつみ、わづかにへだたりて田の中に松の一本ありし所ぞ阿閦寺の跡なり。」と『三語集』をひき、その上で「当代は鳥居もなく松も見えず。」と続きます。
また、一条高校周辺地域の古字「堂ノ前」、「堂ノ後」からこの辺りに阿閦寺を想定する見解もあり、そういったところから、法華寺の巽(南東)方面である一条高校の近くにこの碑が建てられているものと考えられます。
尤も、『和州旧跡幽考』の当該箇所の続きには光明皇后の千人風呂の話を紹介して、最後に垢を流した病人が阿閦如来の化身だったことから阿閦寺となったと結ばれています。『和州旧跡幽考』に錯誤があったということなのでしょう。
ご覧いただきありがとうございました。
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