相続の重文、所在隠す?=博物館寄託、説明せず-破産会社元代表強制捜査・東京地検
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201505/2015052900476&g=soc
ニュースの概要は、破産手続きの際に、京都国立博物館に寄託していた重文二点ほかについて説明しなかったことが破産法違反に問われて強制捜査が入った、ということなのだそうです。
それはそれとして、気になるのは借金のカタに売られてしまった重文について。今回は、先ほどのニュースで紹介された「紙本著色三十六歌仙切(是則)」と「紙本著色源宗于像」について書いてみます。
「紙本著色三十六歌仙切(是則)」と「紙本著色源宗于像」
この「紙本著色三十六歌仙切(是則)」と「紙本著色源宗于像」、作品としてはどちらもいわゆる「歌仙絵巻」と呼ばれるジャンルに属します。「歌仙絵巻」とはその名の通り、三十六歌仙を描いた絵巻物で、詞書の部分にはそれぞれの略歴や代表歌などが書かれています。今回の2つの作品は、それらの絵巻の断簡(一続きの作品を切り取ったもの)部分で、坂上是則(?~930)と源宗于(?~940)の断簡になります。2人とも百人一首に選ばれていることでも有名ですね(※1)。
そして、「是則」は佐竹本、「宗于」の方は上畳本の三十六歌仙絵巻からの断簡。佐竹本とは久保田藩主・佐竹家に伝来していたものですが、上畳本とは歌仙がそれぞれ上畳(貴人用の畳)に坐していたことからのネーミングとのこと。佐竹本・上畳本ともに似絵の名手である藤原信実(1176?~1265?)の筆になると伝わっています。
今回の2つの重要文化財は2月3日に破産管財人から文化庁に売却されたということで、個人が所有する文化財の保存の難しさというものが改めて浮き彫りになった形となりました。
佐竹本の三十六歌仙絵巻の数奇な運命
ところで、「紙本著色三十六歌仙切(是則)」が属する佐竹本の三十六歌仙絵巻については、大正のころまでは上下二巻の一続きの絵巻物として存在していました。しかし、大正期に佐竹家から古美術商を経て実業家の山本唯三郎(1873~1927)に絵巻は売却。その山本も大戦景気の反動による不況から手放さざるを得なくなります。しかし、不況の最中であり、絵巻物を1人で購入できるコレクターは見つかりませんでした。
そこで、絵巻売却の話を持ちかけられた益田孝(鈍翁、1848~1938)が発案したのが、絵巻を裁断し、歌仙1人ずつの断簡にして各コレクターに売るということ。絵巻は三十六歌仙と冒頭図に分割され、大正8(1919)年12月20日に増田邸内の応挙館(東京国立博物館内に現存)でどの断簡を貰い受けるかという抽選会が行われました。
この抽選会には、鈍翁をはじめ住友吉左衛門(十五代、1865~1926)や團琢磨(1858~1932)、野村徳七(二代、1878~1945)といった財界の著名人も参加し、新聞にも取り上げられるなどかなり大々的なものだったそうです。
そして是則の断簡は鈍翁の弟である益田英作(紅艶、1865~1921)貰われていきました。今回の関係人物と益田家に関係ありませんので、やはり是則の断簡も紅艶死後に所有者を転々としたものなのでしょうか(※2)。
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| 佐竹本三十六歌仙絵巻の切断を発案した益田孝(鈍翁) 国立国会図書館 近代日本人の肖像より転載 |
ご覧いただきありがとうございました。
(※1)2人の歌は以下の通り。是則の歌は「六字決まり」としても有名ですね。
是則 朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪
宗于 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
(※2)是則の断簡の所有者変遷は以下の通り
益田英作(紅艶)→津村重舎(ツムラの創業者)→某→伊東富士丸家→文化庁
参考文献
官報 平成27年3月2日号
馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、(日本放送出版協会、1984)
